私小説と匿名性についての考察

柳美里は、誰がなんと言おうと私小説家である。自分というものを精一杯に作品上に生かしている。その基点は見事なまでに創作性と現実性の境界上を走っている。どこまでがフィクションであり、どこからがノンフィクションであるのか、そんなことは彼女にとってぜんぜん関係ない。自分というものをフィクションに取り入れながら作品そのものが面白くなれば、それでいいのだろう。彼女のなかには、自分自身や自分の周辺を利用しているという些細な感情はないだろう。

日本の文学は、作品と作家が一体化しているといっていいだろう。作品といっしょに作家も売り出している。作家のネームバリューを売ることで販売促進している。作家の人柄や個性、年齢、経歴などのプロフィールみたいなものが重要になってくる。

以前、自分が童話を書いているときに思ったことだけど、童話の場合は、作家名がいらないのではないかと思ったことがある。童話を買った子供は、本に自分の名前を書く。そういった場合に題名の下に自分の名前を書きたいという。例えば、吉川レナちゃんの「白雪姫」であるわけだ。新美南吉の「ごんぎつね」ではなく、山下大輝くんの「ごんぎつね」を読者である大輝くんは望むであろうと思うのである。

これを大人の小説に当てはめたらどうであろうか。
読者は、まだ作品そのものよりも作家を読んでいるような気がする。作品とともに作家も読んでいると言い換えてもいい。だから匿名で発表するようにしたらどうなるのだろうか。
まずは読者の意識から変えていく必要があるだろう。一誌ぐらい実験的に、すべて匿名の文芸誌を出してみたらどうだろうか。作品で勝負するというわけだ。 ベテラン作家やベストセラー作家、新人作家、無名作家、すべてが匿名で作品を出して、それを読者が評価するのだ。作風で作家がわかってしまうこともあるだろうが、少なくとも作家名を離れて評価することができるものも数多くあるだろう。
よくいろんなペンネームを使い分けている作家がいるけど、彼らは、ひとつの作家名に縛られて作品を評価することを嫌っているのであろうと想像できる。そういった人ならば今回の匿名文芸誌の意図がわかってもらえるだろう。
・・・などいうことを考えていた。

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